霊山・幡ケ山

大神様がおわします神の山

雲気漂う金刀比羅の嶺

AsaNewB583当神社が御鎮座するお山は幡ケ山(はたがやま)と称します。

写真は、早朝、お山の山頂付近に雲がわき、神々しいお姿を見せておられるところです。

「朝ぼらけ」は「あけぼの」とか「夜明け」を意味します。漂う雲気にお山が霞(かす)み、その荘厳な雰囲気に大神様の存在を実感いたします。

この下の小さいサムネイル写真をマウスの左ボタンで一回クリックすると大きな画面でご覧になれます。

※「Show slideshow」はシステム上、表示されますが、スライドショーは見られません。

また、こんぴら様が御鎮座いたしておることから別名「金刀比羅乃嶺(ことひらのみね)」とも称します。
「金刀比羅乃嶺」は当神社が毎月発行している月報(広報紙)の紙名ともなっております。

2015年8月19日

山頂に御鎮座する御正殿

NozomuLogo
越前市曽原町から見た幡ケ山(参道のある越前町小曽原の反対側)OyamaYajirusi
現在は木々に囲まれてよく見えませんが、赤い矢印の先に当神社の御正殿があります。

下は平成18年(2006年)4月に撮影した上の写真と同じ部分(拡大)
御正殿の建物の一部と屋根がよくわかります。OyamaZenkeiB

2015年8月19日

緑濃く自然豊かなわれらがお山

幡ケ山全景Oyama583

この下の小さいサムネイル写真をマウスの左ボタンで一回クリックすると大きな画面でご覧になれます。

※「Show slideshow」はシステム上、表示されますが、スライドショーは見られません。

2015年8月19日

「幡ケ山」由来と歴史

南北朝時代・貞治の変で斯波氏が越前へ

 時代は今から650年前の南北朝時代(室町時代初期)の貞治5年(1366年)にさかのぼります。
 
 当時、室町幕府2代将軍・足利義詮側近の有力守護大名・斯波氏一族による陰謀事件とされた貞治の変(じょうじのへん)が起こりました。

 貞治の変で斯波氏一族は守護国の越前へ落ち延びて行きます。

 しかし、幕府から斯波氏追討の命を受けた地元の朝倉氏は斯波氏に反旗を翻し、斯波氏が立てこもる栗屋城(現在の越前町厨にある城山=じょうざん=に作られた山城)を包囲します。

■写真は南北朝の動乱を描いた「太平記絵巻」

お山にはためく朝倉武士の旗指物

 その際、城攻めを画策する朝倉氏の武士たちは栗屋城に至る地区の地形を調べるため、一帯を見渡せる小高い山に登り、周囲を偵察しました。

 その時に、武士たちが担ぐ朝倉家の旗指物がこのお山にはためき合い、麓からよく見えたことから「幡ケ山」と呼ばれたと云われます。
 この山こそが、後に当神社が御鎮座する「幡ケ山」でございます。              ■右の画像はイメージ→
                 
 朝倉氏によって攻められた栗屋城は落城。朝倉氏はこの武勲によって戦国時代に隆盛を極めた「越前朝倉氏」の基礎を築きました。

一舟乗安命が「霊山幡ケ山」と呼ばれる

 「幡ケ山」の名は、600年前に出雲から当神社がこの地に奉鎮した後も引き継がれ、定着していったものと思われます。

 江戸時代初期には、宮守・一舟乗安命(生年不詳~延宝三年=1675年=歿)が、このお山をあらためて「霊山幡ケ山」とお呼びになられたという事が伝えられております。



霊山・八幡ケ山